初代はやぶさが小惑星からサンプルを地球に持ち帰るといった人類初の快挙を達成し、はやぶさ2が再度サンプル回収に向けて違う小惑星に飛行を続けていますね。
初代はやぶさでは様々な問題点が頻発して一時は行方不明にもなるなど、地球に帰還できたのが奇跡であるとさえ言われてきましたね。
「はやぶさ2の変更点って何なの?」にも書いているように、こうした問題点を教訓にして初代はやぶさには様々な改良がなされているようです。
聞くところによると「はやぶさプロジェクト」はNASAからも「絶対に無理だ」と言われていたようですよ。
宇宙開発ではトップを走るNASAの予想を覆す結果に日本人として「してやったり」と思う人は多いのではないでしょうか。
見方を変えれば無理と見られていたことが逆に発奮材料になったのかもしれません。
そこで「はやぶさプロジェクト」がどのような形で決定されたのか気になり調べてみました。
はやぶさ構想は小さな研究所で提案された
NASAからも無理だと判断されていたにもかかわらず、莫大な国費や民間からの資金援助を使ってはやぶさプロジェクトに挑戦したのは何かしらの確信があったはずです。
しかし挑戦するには理屈では成功することが確立されていなければなりません。一か八かではいけないのです。
はやぶさ構想は何処から持ち上がってきたかというと、1985年に当時の文部省宇宙科学研究所で提案されていたようです。
それまで地球以外のサンプルとしてはアポロ計画で月の石だけだったのを、他の天体から持ち帰りたいという想いからの提案だったとのこと。
何故月ではなく小惑星を選んだのかというと、小惑星は太陽系が誕生してからそのままの姿であることが大切なんだそうです。
そのままの状態であれば構成物質が変性していないので惑星誕生の起源が判るのだそうです。
だから月以外の天体でいちばん身近な存在である小惑星が選ばれたそうです。
しかし当時の日本は地球の周回軌道に人工衛星を打ち上げることしか経験が無く、しかも他の天体に行ったことも無いのに、往復してサンプルを持ち帰ることなど荒唐無稽に思えたんでしょう。
当時の日本の宇宙開発技術からすれば、NASAから「絶対に無理だ」といわれたのも無理はない話ですよね。
それが成功してしまったんですから、日本の技術って本当に凄いと思います。
これでもの造り日本が世界でトップであることを証明できましたね。
「はやぶさ」開発チームの話によると、みんなで知恵を絞って1冊の計画書なるものを作ったそうです。
そこには多くの若手研究者が集まっていたそうで、ある意味“怖いもの知らず”だったそうです。
どの世界にもこうした若手が参加することで、斬新なアイデアが生まれるようです。
こうした若手のアイデアをベテランがいかにうまく採用していくかが成功のカギだったのでしょうね。
はやぶさの成功はそれを証明したのということになります。
はやぶさの目的はイオンエンジンの確立でもある
はやぶさの目的が小惑星のサンプルを持ち帰ったことばかりが話題になっていましたが、探査機としての「イオンエンジン」の性能を証明することも重要な任務だったようです。
ちなみに「イオンエンジン」はNECが7年もの歳月をかけて開発したそうです。
最近業績が悪くてパッとしなかったNECですが陰でこんな大きな功績があったんですね。
これは世界で初の試みで地球の重力を利用した「スイングバイ」と「イオンエンジン」の両方を利用して秒速4kmの加速を行うことです。
これが成功して無事「いとかわ」に到達したわけですが、ここでも日本の技術力が証明されたわけです。
「はやぶさ」は打ち上げ後に命名された
今回は「はやぶさ2」という名称で打ち上げられましたが、初代は「はやぶさ」という名称は無く、探査機「MUSES−C」として打ち上げられたんですよ。
で、打ち上げが成功した後に正式に「はやぶさ」と名付けられたんです。
ちなみに、「はやぶさ」と名付けられた理由は、鳥のハヤブサのように獲物を捕まえて帰ってこいという願望が込められているようです。
こうした理由で名付けられた「はやぶさ」もイオンエンジンの故障をはじめいくつものトラブルを乗り越えて地球に帰還できたわけですが、そこには思いがけない工夫がなされていたそうです。
それは「イオンエンジン」開発チームの一人がこっそりと別回路を仕組んでいたそうです。この別回路を作動させたところ普及に成功したとのこと。
これが無ければ「はやぶさ」は地球に帰還することができず、宇宙のかなたをさまよっていただろうと言われています。
まさにスタッフ一丸の成果といったところでしょう。
最後の仕事で地球を撮影したあと大気で燃え尽きる姿は本当に感動しましたね。
「はやぶさ」と名付けたのが大正解でしたね。もし失敗していたら・・・・